旅の基礎知識
タイ国の概要
01:時 差
日本とタイの時差は2時間で、タイが2時間遅れています。
です
02: 気 候
タイの気候は、次に挙げる3種類の季節区分に基づく熱帯性気候です。
(1)乾期(11月-3月)
(2)暑期(4月-5月)
(3)雨期(6月-1O月)
年間平均気温は28℃でバンコクの場合、4月は3O℃、12月は25℃となります。
03:通貨&両替
タイの通貨単位は「バーツ」です。
1バーツは約3円で、100円では、約33バーツとなります。(通貨単位は、そのつどご確認下さい)
1バーツは1OOサタンで、硬貨には25サタンと5Oサタンの「銅貨」、そして各1・5バーツ。
銀と銅でできている10バーツ硬貨があります。
紙幣は2Oバーツ(緑)、50バーツ(肯)、1OOバーツ(赤)、500バーツ(紫)、1000バーツ(グレー)の5稚類があります。
トラペラーズチェック・クレジットカード・円のトラベラーズ・チェックは、地方銀行と公認両杵店であればどこでも換金できます。
その他の通貨によるトラベラーズ・チェックは、バンコク内であれば良好なレートで換金が可能です。
一般的にホテルでの為替率は、銀行や公認両替店よりも低くなっています。
主要な銀行、レストラン、ホテル、商店では、AmericanExpress・Diners・Master Card・VISA・JCBを始めとする国際クレジット・カードの利用が可能です。
銀行は、日本のような店舗ばかりでなく出店のような形式が市内のあちこちにあります。
ビルの1階にたばこ屋さんみたいであったり箱形のバンを改造してといった小型の店舗が多くありどこでもいつでも両替が正規のレートで行えます。叉自動販売機というか自動両替機も在ります。24時間両替が可能だったりします。
但し、バンコクでのお話で他は定時と思ったほうがいいです。
04:電 話
赤色の公衆電話は市内通話のみで、通話料金は3分間1バーツです。
長距離電話は青色の公衆電話でかけられます。
料金は1バーツからとなっています。
国際電話は、Internationalの表示のある公衆電話または主要ホテルの電話、あるいは各都市の郵便局にて可能です。
主に黄色い色をしています。
コンビニ・大型店舗・ショッピングセンター・デパート等にてテレフォンカードを販売しております。
ICチップ入りのハイテク?カード(日本と比較して)価格は50バーツ(150円)から有りデザインも面白い物が多くありコレクション?やお土産にもなるかもしれません。
05:郵 便
日本への航空郵便は、葉書12バーツ・航空封書15バーツ・封書14バーツ以上で重さによって料金が変わります。
バンコク中央郵便局(Te1.O2-233-1050)年中無休で平日8:00ー20:00、土日・祝9:00ー12:OO
06:服 装
1年を通じて高温多湿のタイでは、通気性のよい服装がいいでしょう。
涼期の夜(12月〜2月にかけての乾季)、または出岳地帯や遠隔地の国立公園に行く場合、南国と言えどもセーターが必要です。
またレストランやナイトクラブによっては、ジャケットとタイの着用が求められます。
07:電 気
タイの電圧は交流220V(5OHZ)で、コンセントは二結丸型が多く、日本の電化製品をご利用の場介プラグ・アダプター・キットの携帯をおすすめしますがホテルによっては110Vの利用が可能ですので使用可能かどうかは各ホテルまたは旅行代理店におたずねください。
(ただし200Vのコンセントも混在しますのでご使用に当たっては、十分ご注意下さい。
日本と同じ型のプラグで200Vの可能性が有りますのでよく確かめて下さい。
又、タップが1〜2個の場合がほとんどですので幾つも使用する場合は、分岐タップ3個口をおもちになることをお勧めします)
08:エチケット
タイ人は王室を非常に尊敬しています。王室に対して不謹慎な、言動は慎みましょう。
宗教的な聖域ではきちんとした服装が必要です。ノースリーブやショートパンツ、ミニスカートにサンダルなど、場所柄に相応しくない服装は慎むべきです。また僧侶に触れたり、指差すことは禁止されています。
タイの一般家庭、仏像が安置されている礼拝堂、イスラム教寺院などの場所では靴を脱ぐようにしてください。
仏像は、その大小や状態の善し悪しにかかわらず、すべて聖なるものと見なされています。
その上に登って写真を撮るな どといった 敬意の欠如を示す行為は慎んで下さい。
タイ人は、人の頭部を神聖なものと見なしています。
従って、たとえ親愛の情を表すためであっても、頭に触れることは嫌がられることです。
特に子供には注意してください。
09:飲 料
タイの水道水は飲めませんので、ミネラルウォーターを購人して下さい。
中級以上のホテルでは、通常部屋のなかに無料のミネラルウォーターが配置されています。
清涼飲料水は、格安ですが氷に注意してくださいー最近はほぼ問題ないようですが。
スーパー・コンビニに行けばビールも格安です。
万一病気にかかった場介、バンコクにはGeneral Hospital等、日本語の通じる病院があります。
10:チップ
タクシーの運転手や映画館の座席案内係にはチップの必要はありませんが、サービスの良いホテル従業員にはチップを出すのが普通で、ピローチップ(枕銭)として20-50バーツ程度置いておくことは、タイでも慣習化しています。
タクシーに乗る時は、出来るだけ細かいお金を用意しましょう(500Bでは多過ぎです。日本円換算だと1500円くらいですが現地では5,000円くらいの感覚と思ってください。)
またレストラン、特にサービス料をとらないレストランではl0%のチップで良いでしょう。
11:観光警察(Tourist Police)
TATとの協力体制の下で観光客の安全を守るため、1982年に観光警察(Tourist Police)が設立されました。
その責務は、観光客の賠償請求や苦情を基に調査を行ない、その安全保護を図ることです。
現在では約50O名の観光警察官が、王宮、パッポン、ルンピニ公園など主要観光地域に配属され観光客への迅速な支援を保証するため、バイリンガル(但し英語)の観光警察官が各地の観光警察署に配属されています。
緊急の際は、Tourist Service Center(ツーリストサービスセンター)Te1:1155までご連絡下さい。
トップへ
ビザ・通関
12:入国手続き
ビザ30日以内の滞在の場合は不要です。
但し、タイからの出国日が指定されているFix航空券(出発や予約)を所持していること。
また、タイ国を空路のみでの出入国に限る。
13:ビザ延長
滞在期問の延長を希望する場合は、人国管理局に申請料500バーツを添えてその旨中請して下さい。
更に1ヶ月(観光ビザの場介)延長可能です。
14:出国ビザ
不要。
15:衛生規定
汚染地域から人国する場合を除いて、予防接種の必要はありません。
(注)日本の衛生当局で最新の規定を確認して下さい。
16: AIDS予防
性的乱交を避ける」、その場かぎりのセックス・パートナーの場合はコンドームを使用するといった世界中どこでも通用する常識的なAIDS予防法は、このタイでもやはり有効です。
タイはよくエイズ大国といわれますが検査が100%に近いため実数が出ているためです。
だからといって無防備な行為は避けて下さい。
タイの基本的に売買春は禁止ですが一定の地区は、黙認されているのが実態なのです。
18才未満に対する性行為は、犯罪となり逮捕されます。
17:禁制品目
あらゆる麻薬(大麻、阿片、コカイン、モルヒネ、ヘロイン)
最近とみに麻薬に関する法律が厳しくなっています。間違っても絶対手を出さないですださい。
猥褻な文書、写真、物品。
火器:火器および弾薬の輸人には、警察庁または地方登録局の許可が必要です。
所持品:個人用の衣服、化粧品、および職業上の道具については、適切な量であれば非課税で持込むことができます。
タバコ、アルコール飲料:紙巻タバコ、葉巻などのタバコは総重量250g以内、紙巻タバコの場合は200本以内まで、アルコール、酒類の場介は1リットルまで非課税で持ち込むことができます。
家財:所有者の住所変更に伴う中古家財持ち込みについては、適切な量であればこれもまた非課税です。
植物、動物:果物、野莱、植物については、その一部が禁制品となつています。
詳しくは農業規制局までお問い合わせ下さい。
また、空輸による動物の人国許可については、空港でその取得手続きを行えます。
麻薬に関しては、特にタイは厳しいようです。0.1グラム所持しているだけで2年間刑務所行きになり数グラムだと死刑だそうです。
トップへ
交    通
18:航 空
タイ国際航空はタイを代表する航空会社で国内線としては北部9所、北東部7ケ所、そして南部8ケ所、そしてバンコクエアウエイズは、サムイ島とプーケット島を結んでいます。
19:空港税
バンコク国際空港を通過する国際線の乗客は、空港税の支払いが必要です。
乗客は出国手続きの前に、空港内に設置された空港税.(AirportTax)支払機、あるいは空港税専用カウンターで支払いを済ませ、必ず領収書を受け取って下さい。(尚、国内線はチケット購人時に請求されます。)
国際線1人・・・・500バーツ
国内線1人・・・・・30バーツ
但しサムイ空港とスコータイ空港は400バーツ。
(注)国外から同空港への到着時にパスポートに押印を受けた乗客は、その時点でタイ王国へ入国したものと見なされるので、出国時には上記空港税の支払いが必要です。
20:空港から市内へのアクセス
ドン・ムアン空港からバンコク市内へは、鉄道、バス、タクシー等のほか色々あります。
鉄道で約50分、バス、タクシーは時間帯により異なりますが、約1時間から2時間です。
エアポートバスは次の3路線があります。
(約3O分に1本程度。午後11時まで運行。)・・・・・料金70バーツ
A1:シーロム(Si1om)行
A2:サナム・ルアン(SanumLuang)行
A3:パカノン(Prakanong)行
21:鉄 道
北部と北東部の主要な町は、首郁と効率的な鉄道網で結ばれています。
また南部の欽道網により、マレーシアとシンガポールまで列車で旅行することができます。
国内の急行列車には1等から3等までありますが、普通列車には3等の座席しかありません。
鉄道時刻に関するお間い合わせは、ホアランポーン駅Te1.223-7010/223-7020までご連絡下さい。
22:道 路
近代的な道路交通網が全国各地に整備されています。
国内バスで素早くタイ国内を移動することができますが、エアコン付きの長距離観光バスを利用すれば、さらにより快適な旅が楽しめます。
あくまで個人的なアドバイスですが個人で運転するレンタカーは余り進められません。
危険回避・夜間における盗賊の出現の可能性・覚醒剤使用のトラック・ドライバーの危険性等の危険性、道路標識の問題(タイ語が堪能でしたら別ですがマイナーなところへは、タイ語の表示のみです)料金も公共の移動手段が安いこの国では公共の交通手段をお勧めします。

どうしても個人的にあちこち観光したいならタクシー・レンタカー(運転手付)などを借り上げることをお勧めします。
タクシーは、ホテル専属のものをお勧めします。価格・コースなどホテルで設定して有るはずです。

北バスターミナル(モーチット)(Bangkokls Northcrn Northeastern Bus Tcrmina1)
Phahonyothin RoadTe1.2794484-7(エアコン付き),271O1O1-5(普通)

南バスターミナル(サイターイ)(Bangkok's Southern BusTermina1)Pink1ao-NakhonChaisriRoadTe1.4351190(エアコン付き),4345558(普通)

東バスターミナル(エカマイ)Bangkok's Eastern Bus Terminal Sukhumvit Road Te1.3929227.3912504(平日)3910064(休日)

23:タクシトゥクトゥク
バンコク市内の"TAXI METER"のついているものは初乗り35バーツからとなっています。
市内の移動なら約100-20Oバーツまでが相場です。(乗車したら必ずメーターを倒させること料金支払いのトラブルになります。後は500バーツ以上の高額紙幣での支払いは、おつりがない場合が多いので両替してから乗車すること。
バンコク市内の短い移動には観光客の間では"トゥクトゥク"(三輪タクシー)が人気があります。
(料金は30-150バーツ交渉制ですが下手をするとタクシーの方が安くつくことが多いです。タクシーは、エアコン付きですし雨も吹き込みませんし何より排気ガスを吸わなくて済みます。)
トップへ
ダイニング
タイを訪れると、この国の食文化の奥深さに驚くことでしょう。
タイ料理は華やかな宮廷料理から屋台で手軽に食べられる料理までバラエティに富み、郷土料理も地方ごとに味付け・素材が異なり、食べるたびに新しい発見があります。
国内には中国料理、近隣アジアのエスニック料理、西洋料理などのレストランもあり、世界中の料理が楽しめます。
タイ料理
巧みなスパイスの組合わせがタイ料理の妙。
パクチー、マナオ、レモングラスや生姜に似たカーというハーブやスパイスが創り上げた謎めいた味。
世界三大スープに数えられるトム・ヤム・クンでも家ごと、店ごとに微妙に味が異るのにも驚かされます。
香り高いお米に野菜妙めやカレーといった庶民的なものから伝統的な料理を元に創作料理を提供してくれるレストランまで多彩な調味料の数以上に豊富なお店を巡るタイのもうひとつの旅へお出掛けください。
シーフード
美しいシャム湾とアンダマン海、母なるチャオプラヤー川を有するタイ。
この環境が旨いシーフードを賞味させてくれます。
調理方法は焼く、揚げる、妙める、蒸す、そして独特のスパイスにつけて食す.なにも高級レストランだけでなく、路上の屋台でも生きのいい魚介類が気軽に味わえるのがいいところ。
散策のついでにシーフード専門店を見つけておくと、お得なディナータイムが楽しめます。
タイスキ
タイスキとは、鍋に肉・魚・野菜など好きな食材を人れ、甘辛いタレで食べるしゃぶしゃぶのこと。
タイスキのヒントは、日本の鍋料理だったとか。
どこかで共通する味覚をもった者同士ですから、きっと満足していただけるでしょう。
どうしても恋しくなる和食
各都市には天ぷら、寿司、そば、すき焼きなどののれんを掲げた日本食レストランも人気です。
もちろん日本食も充実しております。
大きなショッピングセンターや日系のデパートやスーパーなどには一番良い場所にあるので迷うことはないはずです。
寿司・回転寿司・天麩羅・すき焼き・豚カツ・居酒屋・日本式珈琲店・ラーメン屋とほとんど有ります。
毎食日本食(岱に言って何やってるかわからないけど)なんて事も出来るくらい豊富です。
それにマクドナルド・ケンタッキー(タイのケンタはお奨め)などのファーストフードやセブンイレブンなどのコンビニ(もちろん日本食であるカップヌードル・おにぎり・サンドイッチとバリエーション豊でしかも格安)も充実してます(ただしバンコクやチェンマイなどの大都市)
タイ郷土料理
同じタイ料理といっても、その土地や地域でしか味わえない郷土料理。
なかでも北部チェンマイ(日本で言うと京都)のカントーク・ディナーは、食べ易さとそのシステムが人気です。
もち米を主食に、カレーや豚や鳥の唐揚など7・8種類の小鉢がお代わり自由で振る舞われます。
また、東北部イサーンでは、ソムタムと呼ばれる片いパパイヤの千切りサラダも美味。
プーケットやサムイなどのビーチリゾートでは、とびっきり新鮮な魚介類をその場で、調理してくれます。
フルーツ
この国を 訪れたなら、南国独特の果物も食べてみたいところです。
フルーツの王様ドリアンをはじめマンゴー、マンゴスチン、ランブータン、ココナツ、パパイヤなど新鮮な果物が安く手に人ります。
中国料理
タイにいながらにして本場の味が楽しめるのが中国料理。
中国から移民した人達が経常するだけあつて、その味は折り紙付き。
四川、広東、福建など中国を代表するメニューはどれもこれも本場そのものです。
カラオケ
カラオケもあちこちにあります。システムも色々有るようです。
骨董品および美術品の輸出
タイ王国からの骨董品および美術品の輸出
仏像および菩薩像の全体またはその一部をタイから持ち出すことは禁止されています。
但し仏教徒による崇拝、文化的交流、研究を目的とする場合、美術局の許可を取得すれば例外が適用されます。
現状正規ルートでは不可能です(但タイ国製の仏像のみ対象・他国製はすんなり出来るようです)骨董品または美術品を国外に持ち出す場合は、オリジナル・複製を問ず、美術局の許可を取得する必要があります。
当該許可の申請には、申請の手続きとその審査を行なう為、出荷日又は申請者自身が出発する日の3-5日前までに申請品の葉書大前面写真2枚(1枚の写真中5品目まで撮影可)を用意し申請者のパスーポートのコピーを取り、申請品及びパスポートのオリジナルをそ一れぞれ添えて下記博物館にいずれかに提出する必要があります。
国立博物飾(The National、Museum Division,Bangkok)
チェンマイ国立博物館(The Chiang-Mai National Museum,Chiang-Mai)
ソンクラ国立博物館(The Songkhla National Museum ,Songkhla)
パンコク国立博物館Tel.2241370,2241402,2241396まで電話でお問合せわせ下さい。
トップへ
タイ王国の歴史
紀元前6世紀頃の中国では、揚子江(長江)以南の地を化外の地と呼び、ここに住んでいる民族の多くは、体格や言語上から中国人と同系統と見られるタイ族だった様で、中国人はこの民族を「哀宰」と称し、これらのタイ族は、漢民族の圧迫によって1世紀頃から南下を始め、一部は西方および西南方に一部は東南方へ移動した。
前者は現在ミャンマーに住むシャン族或は、タイ・ヤイ(大タイ)として知られる民族の祖先であり、後者はタイ・ノーイ(小タイ)と呼ばれ、始めはラオス地域に住んでいたが、一部は、メコン川を渡ってタイ北部へ入リ、さらに南進して今日のスパンブリー付近に違したのが現在のタイ族の子孫である。
黎明期(チェン・セン王朝)
黎明期のタイ族史は神話化されている。
しかし、チェン・セン(チェン・ライの東北メコン川河畔)に王朝をつくった最後の王ブローム侯(AC.857年頃)はタイ人の王として案在した。
スコ・タイ王朝
13世紀の初め、すでにタイ中央部まで南下していたタイ族の2土侯はカンボジアと戦い、1238年頃カンボジア軍を破って同国に致命的打撃を与えた。さらに北部スコータイを攻略、土侯の1人クン・バーン・クラン・タオが推挙されてスコータイ王(シー・インタラチット)となった。
シー・インタラチットはスコータイ王国の基を開き王朝は6代続いたが、スコータイ王朝期の特筆すべきことは、第3代の王ラームカムヘエンの事蹟であろう。
ラームカムヘエン大王(1275-1317)はタイ史上空前の戦士であり、その治世40年の間に王国の版図を広大なものにした。
東はメコン川、西はピルマ(現ミャンマー)のサルウィン川、北はナーン、南はナコン・シー・タマラートにおよび、よく統治され繁栄した。
さらに元と親交、2度にわたり訪中して"帰路多数の中国人陶工を連れ帰りスコータイて陶磁器をつくらせた。
これが有名なサワンカローク焼(青磁を代表とするせっ器群、青磁の歴史を参照)である。
また、カンボジア文字を改造し、今日のタイ国で使用されているタイ文字の基礎をつくった。
大王の死後、スコータイ王朝の国威は傾いた。
1350年、チェン・セン王統の血をひくプラヤー・ウートンがアユタヤに都を定めて王位につき、ラマチボティ(1350-1369)と号して4国に君臨、スコータイもこれに併呑されて属国となり、6代、132年続いたスコータイ王朝の治世に終りを告げた。
アユタヤ王朝
アユタヤ王朝は、1350年、ラマチボティが王位についてから36代、417年続いた。
第11代の王ラマチボティ2世(1491-1529)の頃から外国との関係が生まれ、ポルトガルと条約を結んだほか軍制を改箪徴兵制度を確立させた。
以後2代を経て賢明なプラチャイ王(1534-1546)の時代はよく繁栄し、首都のアユタヤは人口が15万人に達する大都会となったが、その後のアユタヤは数回のビルマの侵攻を受けるようになり、しばしば滅亡の危機にさらされたが、こんな時にナレスワン大王(1590-1605)の出現し、侵攻のビルマ軍を4度も破り、タイの独立を確保した。
だが、王の死後、国内で王位の争奪が相次ぎ、内紛が絶えなかった。
この頃、山田長政らの日本人がアユタヤに渡り、アユタヤに日本人町が出現していた。
第32代タムラマーチ2世(1733-1758)の頃は平穏な状態を得たが、王の死後再びビルマ軍の侵攻を受け、1767年ついにアユタヤは陥落、アユタヤ王朝は亡んだ。
タクミンン王朝
アユタヤ王朝最後の王ボロマラシャ5世に嫌われ、手兵をひきいてラヨンに都落ちした勇将タクシン(華僑との混血)は、アユタヤ陥落後進んでビルマの守備隊を攻撃、これを破って6ヵ月後にタイの独立を回復、人心を収らんして王位につき、都をトンブリに移した。
タクシン王は当時分立している諸勢力を漸時手中におさめ、歴代王が陥し得なかったチェン・マイを陥すなどの治績をあげたが、晩年は精神錯乱の状態となり、狂暴性を現わすようになったので、反王叛乱が勃発、1782年、王の武将チャオプラヤ・チャクリが推されて王位につき、都をトンブリの対岸バンコクに遷都した。
この王が現チャクリ王朝の始祖ラマ1世である。
チャクリ王朝
1782年、ラマ1世が王位につき、都をバンコクに移した時点からチャクリ王朝が始まった。
チャクリ王朝第9代の王ラマ4世モンクット王(1851-1868)は、内政、外政に意を用いた皇帝であった。
さらに次代のチュラロンコーン王ラマ5世は、タイ史に比類のない明君で、司法、行政制度を近代化し、中央集権を強化して財政を整え、郵便電信業務を創始(1885)、鉄道を敷設(1892)し、軍制を改革したまた、奴隷制度を廃止するなどタイの近代化のために努力をしたが、永年の王族専制政治は、行政に沈滞と腐敗を招き、国民の反感がつのった。
7世王の時代にいたり、たまたま世界的経済不況の余波を受け、国民の生活が着しくなった時、王は世論を押し切って行政整理を断行したこのため、ヒア・バホン陸軍大佐を中心とする武断派と、ブリーディを首班とする文治派と、プリーディを首班とする文治派によって組織された人民党が、1932年6月24日に無血クーデターで政権を掌握。
同年12月10日に憲法が発布された。
これにより絶対君主政治は終りを告げ、立憲君主国として新しいタイが発足した。
その後、ピア・バホンを継いだピブンの武断派と、プリーディの文治派の抗争が続き、数次にわたり政権の交代が行われた。1938年に組織された第1次ピブン内閣は、太平洋戦争末期まで政権を担当、対日協調政策をとった。
戦局が日本に不利になった1944年6月、文治派のアパイウォンに政権を譲ったが、それから間もない8月15日、日本は連合国に対し無条件降伏をした。
太平洋戦争後のタイ国は、戦後とともにアパイウォン内閣は総辞職文治派のタウイー内閣、セー二一内閣に引継がれ、1946年1月に再びアバイウォン内閣、同年6月にプリーディ内閣時、アナンタマヒドン8世王の変死事件が起り、この結果、アバイウォンの3次、4次の内閣が1948年4月に、軍部の圧力に屈して総辞職、軍部のピノンが内閣を組閣した。
その後は軍部の内閣、文民の内閣との政権交代が行われたが、交代はクーデターによるものが多かったが、タイのクーデターは無血のものが多く、そのうえ国王の証認を得て正当化されている。
この種のクーデターは世界に類列がなく、タイ独特のものである。
第2次大戦中の王位は、1938年ラマ7世が退位したが、7世王には皇太子がなかった。
そのため当時10才のアナンタ・マヒドン王子が次の国王に推戴された。
だが王子はスイス留学中だったので摂政がおかれた。
1938年11月、ラマ8世となった幼ない国王は、名君として祖国の地に帰ってきたが、国民は挙げてこの美少年の国王を熱烈に歓迎した。
しかし、幼い王はさらに勉学を続けるため再びスイスヘ赴き、第2次大戦中はスイスに留った。
戦後、故国へ一度目の一時帰国、戦後のタイに明かるい空気をもたらしたが、学業中の王は、最後の課程を終えるため、1946年6月、再度スイスヘ出発するその前夜、王宮の自室でピストルによる謎の死を遂げた。
この国王怪死事件は内外に大きな衝撃を与え、内閣はその責任をとって総辞職した。
亡ラマ8世、アナンタ王の急死によって、その後を受けて国王に推戴されたのが、弟プーミボン・アドウンヤーデード王子であった。
現国王のラマ9世である。
当時18才、スイスに留学中であったプーミボン国王は、1927年12月5日、父王が医学勉強中のアメリカで誕生された初等教育はバンコクて、その後の大部分スイスで教育を受けた国際感覚豊かな国王といわれる背景に長い外国の生活があげられている一1950年4月、シリキット王妃と結婚、この年の5月5日にタイの伝統に基一づく戴冠式が行われた。
トップへ
日本とタイの歴史的関係
古代における関係
神代といわれた日本の古代(国として完成されたのはたかだか5-6世紀)は曖昧ではっきりしないが、日本人の祖先がどこから移往してきたかについての説は諸々ある。
北方騎馬民族説、大陸民族説、中国華南の民族説…と論争はからみ合うがいずれもキメ手がない。
しかし、不透明ななかから近時急浮上してきたのが中国華南説である。
その頃の中国の華南には漠民族でない民族が住んでいた。
タイ族や同系の民族も住んでいたが、これらの民族と、日本人の生活様式が似ているのである。
中国の雲南省には現在も多くのタイ族が住み、これらのタイ族や北部タイに住むタイ族は、その独特の生活様式や習慣を今日に伝えているが、その中に日本と共通するものが多い。
家屋の建築様式が千木のある高床式家屋で、日本の古い神殿造りと同じである。
日本の神社は玉垣で囲われているが、タイ人の家は竹垣て敷地を囲っている。
日本の神社に神木があるが、タイ北部では大きく生長した木には精霊が宿り、木に対して不浄を禁じる神木思想がある。
泰緬国境地帯に残る「霊洞文化」は日本の岩戸神話と同類のものである。
また、焼畑農業、もち米でつくるおこわの食事情も似ている。
このような類似点と、古代日本の神話が九州南部に向いているところに、華南説タイ族を含む民族との関係云々がとりざたされている。
アユタヤの日本人町
日本とタイの交流は、アユタヤ王朝時代が最も盛んであった。
16世紀末からアユタヤヘ進出した日本人がいたが、公式に日タイの交流が行われたのは17世紀初頭頃からである。
当初アユタヤヘ1度った日本人は、関ケ原の戦いで敗れた大名配下の武士や、一獲千金を夢見る商人達であつた。
記録上の交流は、1606年(度長11年)徳川家康の警簡をアユタヤのエ一カ・トサロット王に呈したことから始まる。
この時の使者は藤原真澄とされているが、この人物は九州島原の大名有馬晴信の締子直純と見られ、有馬氏がアユタヤ交流のイニシャティブを握ったとの見方が有力である。
アユタヤ王朝剛吏節もこの頃から日本に訪れた。
記録によれぱ1604年から1O年間に延ぺ80-100隻の朱印賀易船がアユタヤに赴き、アユタヤにできた日本人町には3000人(現地人の使用人も含む)の日本人が住んでいたといわれる。
初代日本人町の頭領はオークプラ純広。
家名などから有馬一族と見られる。
アユタヤの日本人で有名なのは、4代目日本人町の襲領、山田長政であるが、長政の没後、日本人町は一時すたれたが、致命的となったのが1633年(寛永10年)の日本人海外渡航の禁止、さらに2年後の1635年にとられた海外渡航ならびに帰国の禁止という幕府の完全な鎖国政策であった。
アユタヤには日本人町があって、相当数の日本人が住んでいたが、これらの日本人は以後帰国することができず、自然タイ人化の道を歩んた日本人の血をひくタイ人がどれだけいたかわからないが、それらの子孫がタイ人として増加していったことは確かである。
明治30年に公使館
明治維新後の日タイ関係は、1882年(明治15年)頃から両国の王族が往来することから始まった。
1887年(明治20年)日タイ間修交に関する宣言書が調印された。
1897年(明治30年)東京とパンコクに両国の公使館が設置された。
日本人がパンコクに来た最初は明治21年、次いで明治25年頃から商店の進出がみられ、明治30午のバンコク在留日本人数は51人となった1900年(明治33年)、仏教国同志の友好を深めるため、チュラロンコーン大王から日本に仏舎利が贈られ、日本ではこれを本尊として名古屋に日遼寺(現在の日泰寺)が建立された1927年(昭和2年)、民間の交流機関として東京にシャム協会(現在の日本タイ協会)が設立された会長近衛文磨1933年(昭和8年)日本が満州(中国東北三省)への進攻で国際連盟から非難決議を受けた時、タイ国だけが投票を棄権して日本に友好的態度を示した。
1935年(昭和10年)ルアン・チャウエンサク内相を会長とした泰日協会が、パンコクて設立きれた泰日協会は民間の交流日本人の利益代表機関としての団体である。アユタヤの日本人町跡地の所有管理も泰日協会が当っており、バンコクの日本人学校も、正式には泰日協会管理の私立学校である会長はタイ人、副会長は日本人である。
1941年(昭和16年)従来タイ国は各国間に公使の交換を行っていたが、この年日本との間に最初の大使を交観双方の公使館を大使館に昇格させた。
戦前よりも強い日タイの関係
1949年(昭和24年)敗戦後の日本は連合国軍の占領下におかれていたが、この年に貿易再開が認められたタイは通商使節団を日本に派遣、オープン・アカウントによる貿易協定を締結し、食料難にあえぐ日本にタイ米を供給した1951年(昭和26年)パンコクに日本政府在外事務所が設置された。
1952年(昭和27年)日本が完全に主権を回復すると同時に外交関係が復活した。
敗戦後、多くの日本人は帰国したが、一部の旧軍人および民間人はタイに留まり、同化の道を選んだ。
寛容て暖がい心のタイ人社会は、これら日本人を同胞として迎えた。
日本人は中国人よりも同化速度が早く、2世になると完全にタイ人化し、タイ社会の各方面て活躍している。
日タイの関係は日を追うごとに緊密化の度合いを深めたが、特に1960年代(昭和35年以後)になると、日本経済の回復とあいまって企業の投資、進出が増加の一途をたどった。
そのため、日タイ間の貿易バランスがタイ側の赤字となり、一部タイ人に反日運動が起ったが、その後改善され、日タイ間はこれまでにない良好な状態となつた。
タイ人には民族の誇りと、心を大切にする特性をもっている。
経済重視の交流よりも、人間的な心の交流平等な立場の経済協力を求めている。
日本人はこれらを反省し、謙虚な態度で交流を深めれば、21世紀における両国の閲係はより緊密なものになると信じられる。
トップへ
トロス
代表者:阿部 正敬
東京都江戸川区松島2丁目

タイ王国チェンマイ市
Copyright2001-2008・ TOROS. All rights reserved.