on> セラドン歴史1
スコタイ時代の古窯址と出土品

シサッチャナラィ(一般にはサワンカローク)とスコタイの陶磁は、14〜16世紀にかけて、タイ・ベトナム・中国等から東南アジアの島々及その周辺へ輪出された世に名高い陶磁群の一端を担っていた。
せっ器を生産した窯の遺跡は、シサッチャナラィの旧城の真北でチャオプラヤー川流域の北端にあるスコタイ王朝の最初の首都に存在する。
シサッチャナラィの旧城の北、ヨム川沿いの6Kmに散在する陶磁生産の中心地の数箇所では、この地方にある窯の総数の約1/3の124の横焔式窯が築かれていた。
窯址は、層位学的な見地から言っても、また細長い地形をもっている点などから考えても、まことに複雑な遺跡で窯は、横焔式の物で、長さは3m〜12mと様々である。
61号窯と名付られた窯では、焼成当時のままの10個の非常に大きなせっ器の壷を伴出している。
陶土や燃料を供給するために、生産地・消費地を結びつけた複雑な運河組織も確認されている。
シサッチャナラィは、14世紀頃からの有名な輸出陶磁生産に先んじた、製陶の歴史をもつ注日すべき考古遺跡である。

生 産 地
現存のパン・コーノイ一帯にある生産地址は、シサッチャナラィ地域ではもっとも古く、他の生産地址よりも非常に大規模で、広範囲に及ぶ試行と発展の段階があった。
窯址は、自然の堤防に沿って1Km、幅150m、現在の地表下5mの深さまでの所で発見された。
洪水で窯が 潰ると又その上に窯を作りといった事を繰返しそれが何層にも重なって発見されている。
現在105の窯がパン・コーノイで確認されているが、窯の配置状態から、少なくとも倍以上の窯が存在するであろう。
窯は、現在の地表上に均等に並んでおり最も進んだ形式の大きな横焔式で、日乾煉瓦の一重壁で構築されいる。
大きさは、平均して長さ9m・幅4mほどで、末端を少し掘り下げ、一つの大きな焚口と隔壁によって傾斜した焼成室と分離され、一本の煙突が窯の上端に設けられている。
最下層の地点の原始的な横焔式窯は、傾斜した土地に穴を掘り、内部の窯上を焼き固める為に、窯に火を入れて構築した物で大きさは、3m〜6mに及ぶ。
中間の年代に属するものは、粘土板を用いて築かれた横焔式窯である。
およそ10cmぐらいの厚さでできているが、始めに必要な形を造リ、その中にただ粘土を、貼り付けたのか、あるいはまず粘土で形を築き塗ったものなのか明らかではない。
窯の長さ6m、幅2〜3m(61号の様な非常に大きな審窯も有る)パン・コーノイ遺跡の南端に構築されておリ、無釉せっ器壷の破片や焼損じの物などを併用している(下部が煉瓦で築かれた物もある)。
小さな原始的な窯から始まり、粘土板で構築した窯から技術的に最も進んだ煉瓦窯まで、はっきりとした発展段階が認められ、傾斜した審窯が単室の焼成室と突き出たような焚口しかもってないのに対し、完成の域に達した大きな煉瓦窯は、大きな焚口を持っていて、隔壁によって、焼成室と分離している。
初期の窯は、乾季中にだけ活動したが歴史の次の段階で、せっ器生産の拡大する需要(輸出等)が、窯はより高火度焼成を達成し、一年の大半を焼成し続ける為、巨大な焚口(窯の大きさの1/4を占め)を構築又、乾煉を保つため、屋根を付けた人工の盛り土の上に、窯を構築することによって、常時生産の目的が達せられたのである。
日乾煉瓦を用いて構築することは、今までより安定し、かつ耐久力のある窯の実現を容易にしたが、古い窯の形式が廃止されたわけではない。
それどころか、窯を築くのが簡単で早く仕上がる為に、より進んだ形式の窯と共に使用し続けられ特殊な焼物を焼成する為に使用された。
当時、焼物の生産拡大が進むにつれて、製品の専門化が進行しすでに品質管理があったことは、この遺跡における多数の昇焔式窯と横焔式の極めて接近した地点で発見されている事によって証明される。
緑色釉がかかっている物でも、せっ器は一度焼で、焼成されたといわれているが、昇焔式窯の存在と土器状で発見された若干のせっ器の破片の発見で、二度焼されたと考えられる。
焼成に際し、二段階の方法は、予備的な素焼で、焼物が収縮するのを減じ、施釉したものを焼成するときには、よりよい火度の訓節をすることができ、さらに良い品質の釉を生みだしたであろう。
パン・コーノイとシサッチャナラィで旧城との間にある現在のバン・ヘヤン付近に、さらに三ヶ所の製陶の中心地がある。
その遺物の窯の活動期がパン・コーノイ窯の輸出陶焼成時期と一致している。
日乾煉瓦で構築された大規模な横焔式であり、パン・コーノイにある大煉瓦窯の構造と同一である。
製陶の一つの中心地は、村の北に位置し、小型の人形を専門的に作ったので、その地方では「ツカタ(人形)窯」として知られ村の南方には、さらに二つの中心地があリ、村の名をとって「パヤン窯」「ヤク窯」と呼ばれている。
建築用材や屋根飾りとともに、守護伸やナーガなどを焼造していた後者の窯は、当然のことながらシサッチャナライ旧城の北壁近くに築かれている。
パヤン窯は釉下彩の合子を専門的に焼造し連続した層位の中に発見され、その最下層の窯は東西に横たわる大きな細長い丘陵の最下部に位置している。
専門化が生じる以前、3グループは、パン・コーノイて発見された物と同じ輸出用釉下鉄絵せっ器と青磁を焼造していた。
同時代に属するのは、シサッチャナライから南へ約50Km離れたスコ夕イ市に存在する窯である。
スコ夕イ遺跡では、シサッチャナライで明らかであった技術上の発展の跡が認められず、既存の技術を採用したことは明らかである。
スコタイの横烙式窯がシサッチャナライのそれに比べて、小さくて、幅が挟いのは著しい特色であリ、両者の相違点だといわれている。
スコタイには4群の窯があり、市の北城壁に接近した同一地域内に存在し、スコタイ市と最も近い場所にあるのは、横焔式の窯で、4群中では最古と思われる。
次の遺跡には7基の横焔式窯があり、同数の昇焔式窯を伴っている。
残りの2群は、もっぱら昇焔式の窯で構成されている。
全部で50基ほどの窯が確認されており、15基が大規模な日乾煉瓦製横焔式窯である。
スコタイでは、生産の大半が国内用と建築材の為せっ器生産は非常に小槻模にしか行なわれなかった。

シサッチャナライ陶
シサッチャナライで焼造された最古の焼物は、国内用の土器のようだがその原始は遅くとも11世紀にさかのぼる。
せっ器生産は、ヨム川沿いにある城壁都市の寺院址の北6Kmの所に位置するパン・コーノイで、11世紀後期〜12世紀に始まったようである。
初期のせっ器は、地下式の窯壁のない裸の窯で簡単な無釉の壷や瓶等が焼成された。

モ ン 窯
パン・コーノイの北3Km、「モン窯」として知られている地点て生じた、初めての緑色釉のせっ器が焼造された。
施釉せっ器の形式や焼成方法は、北部タイのサンカンベンやカロンなどと非常に似ているが、どのような技術の交流が行なわれたか、いずれの窯が古いかについては、不明。
いま一つの革新的なことがバン・コーノイで起こった。
それは、スコタイとシサノチャナライの、両方で、焼造された釉下彩の輸出陶の先鞭をなす物の出現であった。
これは、緑色釉のかかった姿のたくましいせっ器で、釉下に鉄絵具の魚と花の文様かある。
焼成中に、窯の中で、焼物がくっつかない様に、筒型の支柱や五爪の付いた円盤状のトチンが初めて使用されたが、ときには、両者が併用されることもあった。
初期の施釉せっ器焼造はシサッチャナライのコーノイ地区のみで、施釉せっ器の輸出の試験的段階であったが、連続的に焼造ができる大きな焚口をもった地上式煉瓦窯がスコタイの陶工によって、せっ器焼造利用され構築された。
シサッチャナライでの輸出陶生産の初期には、青磁の焼造に重点を置いていたが、しだいに釉下彩絵の技術が進み、新しい文様が開発された。
それから、ハヤンに窯が構築されたが、この窯は合子や象形陶を専門とし、青磁の焼造はは、もっぱらコーノイ地区で行なわれていた。
生産が拡大し、青磁焼成のためにコーノイ地区の北端にさらに大きな地上窯が構築された。
ハヤンと同様に、輸出陶の増産は勿諭のこと、拡大してゆく都市の需要に応えるために、建築用材を焼造する目的でシサッチャナライの城壁近くに、さらに多くの窯が築かれた。
輸出陶磁の種類はさらに拡大し、劃花文のある白濁釉や白・褐釉陶に及んだ。
これらの陶磁には、多くの建築用材に施したと同様な加飾技法が用いられている。
文様意匠は、完全に成熟した釉下彩の輸出用合子から採リ入れたものであった。
製品の輸出活動は14世紀の初めに始まったと推測する一方、シャム湾の沈船からの引揚遺物から、輸出は少なくとも16世紀後期迄、恐らくは17世紀初めまでは続いていたと、われわれは確信している。
次(青磁の歴史2)に述べることは、土器と、貿易用商品は勿論の事、国内又は建築用に作らねた高火度焼成陶との両方の焼物についてである。

シサッチャナライの国内用陶磁

旧城内やその近郊の住居址で行なわれた発掘の精果、多教の陶片や国内用陶器・せっ器の完品などが出土した。
それらは、簡単な縄文あるいは劃花文または印花文をつけた手捻りの食器や貯蔵容器で、磨研した無釉土器や幾種類かの無釉せっ器等であった。
国内用のもの、特に縄文や箆目文のついた土器は、輸出陶焼造期よリ数世紀先有しているが、それらの生産価格が安いことと、機能的な性質等から、これらの土器はおそらく全居住期間を通じて焼造されたものと思われる。

1:低火度土器
(1)装飾土器
これらは紐土巻土、叩き成形による技法を使用した土器であり、印花文、箆彫による劃花文、縄文等で装飾され、器物の全面にそれらの文様が施され、時には垂葉帯状文が口縁部にだけ加えられることもあった。
素地は概して粒子が粗く、植物の繊維状の痕跡がある砂混りのものであった。
土器は脆い性質を有し、露天に設けられた穴の中で焼成されたようである。
完器は出土していないが高台がなく折返し口縁をもつ球形の容器であったと思われる。

(2)素文土器
これらは手捻で薄造リの無文のケンディや壷等で前途の物よリはずっと精製した素地を有している。
ケンディは球形の胴、尖った注口、高い頸と未広がりの口縁をもっている。
これらは手捻りだが、ある種の物は回転台か、又は手による熟練した轆轤の様な物を使用して仕上げをしたようにみえる。
この種のケンディの形式は、乳首状の注口と細い頸とを備えた後代の輸出用せっ器のケンディとは異なっている。

磨研土器
手捻りではあるけれども、仕上けはおそらく轆轤によった物であろう。
焼成前に研磨されておリ、精製された素地で作られている。
完器は発見されていないが、土器片によって、美しく外反した口紙をもつ蓋壷の含まれていたことがわかる。

2:無釉せっ器

種々な形式と大きさの灰色の素地を持つ無釉せっ器が、シサッチャナライの生産地と住居址との発掘で出土している。
陶片が最も多く集中している場所は、バン・コーノイで、特に大量のせっ器がワット・チャンロムの東の旧城内で焼造された。
大部分のせっ器には、部分的に自然の灰釉がかかっているが、中にはこの偶然の、釉掛が器物の上半部を、万遍なくおお⊃ているものもあるので、故意に釉を、かけたと誤解されてきた。

(1)壺と瓶
これらのせっ器には、高さ数cmのものから40cmに及ぶものがある。
最も一般的なものは、広い胴をもち、肩が広くてしかも、平坦で、胴は先細になって、平底かポタン底に至っている。
短い筒形の先は頸のラッパ口(くち)である。
一般に轆轤によって成形されるが、今までに発見された数個の破片が、一部では、紐造りの技法て成形され、仕上げは轆轤または回転台で行なわれたものがあることを示している。
口縁と胴の上部には、しばしば窯中の焔の方向を示す自然の灰釉がかかっていて、飴色から濃緑褐色を示している。
胴の上部の2/3が、黒色、褐色、又は濃緑黒色の自然釉によって覆われているものもある。
有孔の高い高台の壷も発見されている。
せっ器の多くは素文だが、中には肩や頸の継目一や外反する口縁に、簡単な印花文や轆轤目の弦文をつけたものもある。
もっとも際立っているのは、その先端がとがった堅い唐草貼花文の垂飾帯を頸に付けているせっ器である。
1983年の発掘中に、61号窯で、これらの多数のせっ器類が無傷のまま発見された。
窯詰めされる時には、これらのせっ器は施釉されていないから、円盤状のトチンや筒形の支柱を使て、お亙いを分離しておく必要はなかった。
この貼花文を有すろシサッチャナライ陶は、スコタイの発掘の際にも発見されている。
焼造の後期には、より注練された形式の壷で、しばしば環形の耳をもつものは、黒釉あるいは褐釉がかけられた。
壷には頸をもたないものもあり、短いラッパ状の口縁を有するものもある。
パン・コーノイの地表面には、この種の壷の多数の破片がある。

(2)貯蔵用大壷
紐造りの貯蔵壷はパン・コーノイで焼造された。
これらの壷は、アジアで作られた壷の中では最大のものであって高さと幅が1mに達した。
球形の胴と小さい平底があり、口縁には、低い玉縁状の口と、短くてラッパ形の口との二種がある。
文様は肩と耳状の突起の部分に施され、縄文と弦文とに限られていた。
これらの壷の上部2/3は、概して自然の灰釉がかかり、濃褐色を呈している。
これらの大壷は、技術の進んだ段階でも、紐造りの技法によって成形された。
重量のせいもあって、壷の上部が完成するまでは、下の部分は「なめし革」程度の硬さを必要としたからてある。
このような大きな壺は、東南アジアの輸出陶としては今日まで報告されていない。

(3)蕾鉢、漁業用錘および雑器
錘は球形か楕円形で、主軸の部分に孔が開けてあり綱に結び付ける為に外側に溝を彫ったものもある。
無釉の物もあるが、緑色の釉のかかった物も有り織機の紡錘も又素文や施釉のせっ器で、製造された。
陶車や球や篩(ふるい)に類する物等も、発見され蕾鉢は円錐形てボタン底をおり、全部が無釉で、一般に轆轤目の弦文だけをつけている。

3:施釉せっ器

(1) モン窯
最古の施釉陶はパン・コーノイで発見され村の人々によってつけられ「モン窯」として知られている。
バン・コーノイ遣跡の北方で発掘を行なった際に、その最下層から出土したが、焼物が焼造された窯そのものは、発掘されていない。
主として平底の浅い鉢で、粒子が粗く鉄分の多い素地、轆轤仕上げの外反する鐸縁がついている。
鉢の内側にだけ黄緑色の釉がかかっていて文様は、内壁の湾曲部に付けられた櫛描波状文で、外側は、無地のままである。
鉢の露胎の部分は、濃褐色に焦げており、ときには著しく膨らんでいる場合があるがこれらは、口縁と口縁と、底と底とを合わせて焼成されており、無釉せっ器と同様に高台を持ってはいないが、それらと比べると著しい発展の跡をみせている。
モン窯が、同じ窯詰の方法で焼成したタイの北方にあるサンカンペンやカロン産の物と、緊密な類似点を持っている事に注目すべきなのは、仕上げが優れており、轆轤成形による美しい高台を有し、印花による双魚文を含め、意匠の変化に當んでいる点である。

(2)粕下彩絵
一筆彩による釉下鉄絵の最古のものとして特筆され、又シサッチャナライの輸出陶磁の先駆であった。
主としてパン・コーノイで焼造されたが、数片の陶片がパン・パヤン遺跡で発見されている。
これらの焼物はスコタイ陶に先行しているようである。
明時代というよりは、むしろ元時代の文様に近い傾向を示しており、その文様は、中国の輪出陶磁の影響を受けている。
窯詰めした器物が焼成時に、お互いに付着しないように、爪のついた円盤状のトチンや筒形支柱が、それぞれに、またあるときには同時に使用されているのは、中国の影響である。
シサッチャナライでは、筒形の焼成台の方が一般的となり、円盤状のトチンは、使用されなくなってしまったが、スコタイでは両方が使用され続けた。
文様をつけたり、施紬する以前に、初期釉下彩絵の一部の物には、化粧掛が行なわれ、釉は透明なものから緑味のある青磁紬に至るまで様々だが、ある場合には、事実あまりにも濃厚なので、釉下の文様を殆ど見ることが出来ないほどのものが有る。
これらの釉下彩絵はさらに3つに分類される。

A:魚文の大鉢と大皿
これらは、入念に仕上げられ広い帯状文と見込の大円圏の中には、力強い筆致で文様が描かれている。
外例の文様は疎らな物で、14世紀初の中国輸出陶磁をしのばせるたくましい蓮弁文が描かれている。
皿は浅くて、モン窯青磁やスコタイの魚文皿によく似た錬縁を持っているが、轆轤で仕上げ、浅く削った高台に中国の影響が著しく認められる。
器の内側壁には、大魚と水草の文様があり、見込みには力強い筆致の草花の円形文様がある。
この文様の組合せは、ときには逆の場合もある。
主として用いられている釉は、灰色から緑色にまで及び、透明な物から不透明の物まである。
文様を描く前に、しばしば化粧掛が素地に施されている。

B:花文の皿・鉢
形の上では、最初にあげた種類の物と似ているが、大きさが様々である。
鐸縁には、数本の線か、あるいは筆をぶっつけたような点状の装飾があり、二重または三重線で取り囲んだ大円圏の中に、簡単で疎らな花文が描かれている。
迫力があり、しかも写実的な花文様を描いた大皿や大鉢の破片も発見されている。
それらの高台の形は、モン窯と似た浅く削った物から、輸出物によく見られるように、垂直に立ち上がった物等、様々な種類がある。

C:小壷・小鉢
美しく仕上げられた壷と鉢とであるが、垂直に立ち上がった高台にまで入念に施釉されている点が、輸出物と異なっており、淡緑色から灰色まで様々である。
文様は疎らだが、きちんと描かれており、花文と幾何学文様とに限られている。
釉下の顔料は、しぱしぱ真っ黒な事がある。
時には、薄い黄土色に焦げることがあるけれども概して非常に美しい灰色〜白色の素地を有している。
釉は、たまたま北部タイのやきものの釉とまちがえられることがある。
最初にあげた二つの器種に属するごく少数の焼物が輸出されているとの報告があるが、その一例はジャカルタの国立博物館の蔵品の中にある。

(3)青  磁
たくましくて写実的な魚文皿の文様から後代の様式化された文様に至るまで、初期の輪出陶磁にみられる写実的文様を基準として、釉下彩絵の発展の跡をたどることはできる。
しかし、どのようにして青磁が発展していったかについては、十分にわかっていない。
青磁釉の出発点はモン窯かあるいは青磁釉のかかった釉下鉄絵魚文皿かであろう。
青磁の形式は、シサッチャナライの魚文皿と密接な関係がある。
釉下彩絵青磁は劃花文青磁よりずっと以前に焼造された可能性がある。
輸出陶を焼造した遺跡で行なわれた発掘の下層で、もっとも一般的な青磁が出土したが、それには浅くえぐった綾目の交差文や、外側に元、明の青磁をしのぱせる溝彫の縦筋文などがつけられている。
東南アジアでみかけるような完品は、ほとんど発見されていないけれども、製陶の全遺跡を通じ、釉下鉄絵青磁の破片は出土しているのである。
タイの輸出青磁は常に筒形の支柱にのせてそれぞれ焼造され、口縁と口縁とを互いに付着させる方式では焼成されなかった。

(4)建築用材
シサッチャナライの製陶地址の全域を通じて、屋根瓦は焼造されていた。
無釉陶器や灰色せっ器製の瓦は、白釉や青磁釉のかかった瓦同様に、しばしばみかけるものである。
一般的な形式は、各種共通であって、長方形で一方の先端が尖っており、瓦を固定するための直角部をもっている。
瓦よりもさらに精巧な建築用陶磁は、シサッチャナライの北の城壁に近接したバヤン窯で焼造された。
それらは、形象的・装飾的・実用的物や建築の付属品と称すべき物等である。
仏教の守護神、夜叉像などは高さ150cmに達する物もあったが、大型の像は二つに分けて焼造され、腰の所で継ぎ合せたのである。
跪(ひざまずいた)いた小さな帰依者像や屋根飾りのナーガやマカラなどもまた焼造された。
1mぐらいの大きな物もあったが、葉形の透彫や幾何学文様がついた筒形ランプや、釉のかかっていない床タイルや屋根瓦、あるいは白釉や青磁釉のかかっている床タイルや屋根瓦など、数々のものが一般的にみられる。
これらの特殊な陶磁によくみられる施釉方法は、褐釉をかけて白釉を際立たせるか、貼花した装飾文やあるいは創花文に、白釉と褐釉の両方を掛け分けするかの、いずれかである。

(5)祈 願 像
様々な人物像や動物像が、パヤン窯の北端にあったもう一つの窯で焼造された。
それは、「人形窯」と称せられる特別な窯の一群であり、褐釉や青磁釉のかかった小さな鶏から、同じく象使いと衛兵を伴った精巧な騎象人物像等、様々な物が有る。
これらの大部分は、その地域の需要に応えるものであったが、その中の少数は輸出されていたので、時期的には輸出陶生産時代と同年代のようである。
それらは、仏教儀式に用いるために焼造されたのであろうが、その他のものは、あるものは精霊崇拝の儀式用、またあるものは単なる玩具として作られたのかもしれない。
白釉のかかったものが発見されている。


シサッチャナライの輸出用陶磁
シサッチャナライやスコタイ陶がいつから貿易品となったかについてはまだ正確にはわかっていない。
東南アジアの国々の海上交易が拡大するに伴い、15世紀までには、輸出物としての地位が明らかに確立されていた。
マルタパン湾を経由して外国商人の手に渡った可能性もあるが、これらの輸出陶磁の大部分はアユタヤ経由で取引に臨んだのである。
始めに述べた事柄に関連して、インドネシアやフィリピンで、シサッチャナライ陶やスコタイ陶の特別な発見があったという報告が、増大しつつあることを特記しておかねばならない。
シサッチャナライやスコタイにおける製陶の中心地では、貿易陶磁生産が拡大する一方で、国内市場向けの陶磁生産も継続していたことは、いまや明らかである。
南部タイの住居址からは一点も出土しないが、北部タイのチェンマイ近くで、シサッチャナライのせっ器が発見されている。
一方、大量のものがアユタヤの川から引き揚げられているのである。
これらの陶磁は、輸出先の国々で発見されたものと同類である。
その中の主な物は、劃花文のついた青磁鉢や釉下鉄絵の合子や白・褐釉施文のある合子などであった。
それらに次いで一般的なものは、各種の釉による小合子や小瓶などであった。

1:青  磁
最初はパン・コーノイで開発されたのだが、シサッチャナライの製陶地の全域を通じ、大きな横烙式窯で青磁が焼造された。
陶片がもっとも多く集中しているのは現在のコーノイ村の北部だが、青磁片はそこの地表面や旧城壁に近いパヤン遺跡の最下層で発見されている。
もっとも一般的な形式は、外反する錬縁と外反する高台をもつ大鉢でありその内面に施された劃花文にふさわしく、外面には彫り込んだ鏑文様がしばしば施されている。
見込みの円形文の中心に花文を配することも、しぱしば行なわれたし、内壁面には、劃花の技法による花文、葉文または花弁文が施されている。
山水文・人物文は行なわれおらず、魚や鳥や昆虫や動物などは、ごく稀に文様として用いられた。
一般的な文様の一つの綾目交差文は花文様と結びつき、稜花形の口縁は、中国輸出陶磁を真似た様に思われる。
青磁鉢の一般的形式は、おそらく元の影響を強く受けたと考えられるが、明時代の輪出青磁に影響されたことは確実である。
タイの輸出青磁のうちのわずかなものが、釉下鉄絵の文様をつけている。
輪出青磁のうち、二番目に一般的な形式は、球形の胴をして輪形の耳をもつ瓶は、素文の物もあり、その他では轆轤目の弦文、縦筋文、劃花文などが付けられていたが、以上の文様を組み合わせたものもあった。
ラッパ口をもった玉壺春形瓶、小さな面取鉢、蓋付壼、瓢形瓶、輪形耳付小瓶、水滴、縦筋文杯等はすべて輸出用に焼造されたのである。
タイ語ではパアンと呼ばれる末広がりの高台の筒形器台にのった大鉢は、あらゆる生産地で焼造され、そして輸出された。
高さ数cmの壺からその径が30cmにも達する皿に至るまで、青磁の大きさは、様々であった。
全体的にみて、青磁は頑丈にできており、迫力のある文様をもっていた。
青磁釉は、堅いガラスのような緑色から柔らかい薄青まで、色々有り、内と外とに二通の色合いをもつ青磁釉のかかった壼の陶片が生産地址で発見されているが、二通の色合をもつ青磁釉のかかった完品についての報告はない。
タイ青磁の最高のものは、すぐれた繊細な文様と優美な釉をもっていて、きわめて美しい物である。

2:釉下鉄絵
筆で描いた花文と幾何学文様とをもつ釉下鉄絵の合子は、輸出用に焼造された陶磁器中、二番目に数が多いものである。
パヤンの南近くで、旧城に最も近い窯が専門的にこの種の製陶を行なった。
明時代の輸出磁器を写した小腕とケンディ、蓋付壼、瓶、そして人物像や動物形の水滴等も又輸出されたが、数量の点で合子が他の形式の物を遥かに圧倒していた。
合子は高さ3cmほどの小さな物から、大きい物は高さ15cmもあり、寸法は様々だが、平均の高さは約10cm程であった。
頑丈に作られた青磁とは対照的に、釉下鉄絵の合子は概して繊細に作られており、巧妙な轆轤仕上げの、ぴったり合う蓋が付いて、高台は繊細に外反しており、合子の厚さは、しぱしば非常に薄いものであり、逆に、まったく頑丈な小合子の有る事も知られている。
最初期の合子は、蓮花や葉や羊歯等を繊紬に描いた写実的な文様を持っていた。
その後の、最も一般的な物は、精巧に作られてはいたが、文様が非常に形式化されてしまい、何の変化もなしに、いくたびもいくたびも同じ文様が繰り返し描かれている後期の例では、合子の胴まわりを葡萄蔓草がめぐり、果物の箒状の鉦がつき、蓋の湾曲した肩の部分には、中心から四方にひろがってゆく鋸歯文帯がある。
鳥や、ごく稀には人物や魚の文様などが描かれたが、最も一般的な意匠は、交互に配した窓枠内に描かれた幾何学文様と花の取合せ文様などであった。
文様には、中国の青花磁器から採った物も有、巻貝文様や庭園を遥する文人の姿や瓜恩文等である。
釉下鉄絵は焼成後に黒色あるいは灰色を呈したが、一般には化粧掛をしていない素地に、直接に描かれたのである。
蓋にある中心円や高台には、しばしぱ飴釉がかけられることがあったが、一般的には透明乃至淡緑色であり、焼成後は淡青色を呈することもあった。
特に釉が流れたり、合子の蓋の上に溜ったりした場合は、そうなるのであった。
合子の内側には透明釉がかけられたが、蓋の合せ目には釉はかけられたかった。
最も一般的形式は、球形の胴に平らな蓋を持ち、蓋には果物の茎か蓮の蕾形の鉦が付いているが、少数の合子のうちには、鳥形の鉦をつけた物もあった。
輪出の1/4はおそらく型によって成形されたのであろうが、面取りになっているか、くぽんだ面をもっており、これらの合子には、幾何学文と植物文または葉文を交互に配してあり、蓋や胴に施されたのと同じ文様が描かれている特徴があった。
総体の文様が上下完全に合致する場合もあり、また文様が蓋から下の胴の方にあふれ出るように描いてある為、胴と蓋の図がある点でぴたりと結合することもあった。
タイの陶磁は、インドネシアやフィリピンでは埋葬用品として一般に用いられたのである。
青磁をはじめ、ほとんどすべての輪出陶の場合と同様に、合子は大小に応じ、あるいは窯詰の都合を考慮して、大きさや高さがまちまちな筒形の支柱にのせて焼造された。

3:白・褐釉劃花文
ごく少量に焼造されたものは例外として、二色釉の焼き物は釉下彩絵と同じ形式と文様とを踏襲した。
この種の釉をかけて焼造された焼物の大部分は、合子や蓋付壷などであったが、その範囲はケンディ、水滴、瓶、動物像等にまで及んだ。
装飾には、質的に極めてパラツキが多い。
器物が轆轤で成形されると、素地が乾かないうちにただちに文様の輪郭が彫られた。
それから地の色と文様の色とを交互に変えながら、褐釉と白釉とがかけられたが、時には、その配色があべこべになる場合もあった。
後代に発展した釉下彩絵の文様をそっくり踏襲して、所々に花や葉を付加えた流れるような唐草文が通常の文様であった。
白・褐釉は、おそらくパン・パヤンだけで焼造されたものであろう。
そして、パン・パヤンでは、同じ施釉方法が建築用材を飾るために大規模に行なわれた。

4:褐 斑 文
飴釉、濃褐釉あるいは黒釉などのかかった単色釉の壷、合子、鉢、瓶などは、限定された数量が輪出用に焼造された。
最も一般的な形式は、西洋梨形の胴と輪形の両耳をその下にもつ短頸の小さな筒形瓶であった。
これらの焼物に施された文様は、轆轤目の弦文に限られていた。
その形式は青磁と同じであるが、合子だけは例外であって、この種の合子は、彩絵や二彩釉の合子とその形が似ていた。
濃い単色釉のかかった焼物は、パヤンとコーノイで焼造されたのであって、一部で言われている様に、シサッチャナライの南にあたるチャリエン旧都の窯で焼造されたのではない。
白釉のかかったものは、鉢、台鉢、輪形耳付蓋壺、ケンディ、釉下に劃花で植物文や幾何学文を施した合子又は褐釉をかけて際立たせた劃花文の蓋のある合子等であり、概して厚くて白濁しており、やや光沢があるが薄青く焼き上がったものもある。
最も美しい白釉陶の中には、やや深い縦筋のついた小壺や球形の瓶広どがある。
白釉陶は全ての生産地で焼造されたが、数量は限られていた。
縦筋のある壼は例外として、白釉陶の形式は他の輪出陶と同じであり、最も普遍的な意匠は、釉下彩絵の手馴れた形式に基づいている。

スコタイ陶

前述のように、スコタイの窯場は、シサッチャナライの窯に比べると小規模であった。
スコタイとシサッチャナライの二大生産地間でとくに注目される窯の構造の相違は、それらの地で使用された窯道具の相違点と一致している。
シサッチャナライの陶工が、あらゆる大きさの、そして様々な筒形の支柱を使ったのに対して、スコタイでは、爪付のトチンを一般に用いた他、長めの支柱も大量の器皿を焼く場合には併用されている。
シサッチャナライの手作りで爪の付いた円盤状のトチンは、パン・コーノイにおける初期段階のみに使用された。
ところが、スコタイで作られた頑丈な型抜きによるトチンは、生産が行なわれた全期間を通じて使用されたのである。
このようなシサッチャナライとの違いがスコタイ陶の著しい特色を形成している。
シサッチャナライと同じ国内用、建築用材、輪出用の三つの範篠に分けて考えることができる。

国内用陶磁
文様の点で、シサッチャナライの低火度陶と密接な関係の素朴で櫛目文の付いた無釉陶器壼は、昇烙式窯で焼成された。
赤味がかった素地で作った蓋付壼、ケンディ、鉢などの破片が生産地址で発見されている。
シサッチャナライのものと同形の灰色無釉妬器がスコタイで焼造されており、文様や釉の点で、パン・コーノイの初期魚文皿とたいそう似ている焼物の破片が出土している。
陶片だけが発見されたに過ぎないが、初期スコタイ陶で輪出陶とは異なった、深緑色の青磁風な釉がかかっている物がある。
これをシサッチャナライの魚文皿と区別することが出来るのは、粒子が著しく粗くて、斑点のあるスコタイ独特の素地を有している点だけである。
寺院の手摺、欄干などを含めて、多くの建築用材がスコタイで焼造された。
大きなナーガの屋根飾りや背の高い三角形の頂華などは、シサッチャナライで焼造された物と似ているが、シサッチャナライの物に比べると、それらは造形の点でやや迫カに欠けており、シサッチャナライのナーガでは褐釉と白釉とをかけ分けてあるところを、スコタイでは釉下鉄絵で際立たせている。
輸出用陶磁さまざまな大きさの鉢、合子、瓶、蓋付壼などは、化粧掛をした素地の上に釉下鉄絵の技法で文様をつけ、白釉をかけたせっ器であるが、輸出陶の大部分は、釉下鉄絵で描くたくましい魚の文様と外反する錬縁をもつ浅い皿類であった。
その皿の中には、大雑把にただ一匹の魚を描いたものもあるが、パックに群葉や水草文を美しく描いた皿もある。
これらの文様は、シサッチャナライの初期魚文皿から発展してきたものであるが、スコタイ自身のもつ著しい特徴をも兼ね備えている。
重冠文様や太陽文様をもつスコタイの鉢は、まったく特色のあるもので、これらは化粧掛をしてある下地を現わすぺく、釉下鉄地の大部分に掻き落しを施して文様を表現するというこの地方特有の技術を展開している。
シサッチャナライの発掘地では、スコタイ陶が今までに発見されたことはないが、シサッチャナライ陶の多くの破片がスコタイで出土している。
スコタイ陶は、タイランド湾クラム島沖の沈船からシサッチャナライ陶とともに発見されているが、これは両都市の輸出陶製作期間が少なくとも一時的に重複したこと、スコタイはシサッチャナライの活澄な製陶活動によって、その勢力をまったく奪われてしまったのではないことを物語っている。
スコタイ陶は素地が劣っており、スコタイの陶工によって限られた種類のやきものしか焼造されなかったにもかかわらず、まったく独特な魅力を実によく備えている。

シサッチャナライとスコタイにおける陶磁生産
モン窯の生産が始まってから釉下彩絵の完成に及ぶ期間は、シサッチャナライにとっては一つの発展期であり、この遺跡の永い生産史の発展過程の時期区分を示唆している。
国内や地方産業と結びついた発生、試行、発展であり、さらに遠距難間取引の為の増産に応え、急速な展開は、必要性に駆られての拡大であり、初期の段階は、パン・コーノイで始まったということができる。
陶磁生産体制が確立され、製陶史の大部分を占める高火度陶を焼造したのは、このシサッチャナライ地域の北端であった。
しかし、これら初期窯の製品の文様と焼成方法とは、北部タイの陶磁生産と明らかに繋がっている様に見える。
次に、シサッチャナライはさらに大きく発展し、技術的にも更に進んだ窯を発明した。
初期段階は、長い間窯の構造や製陶技術の点などで悠々として進化しなかったが、輪出市場向けの陶磁生産増大が求められ、窯は急速に大きな煉瓦窯へと変わっていった。
窯の構造に明らかな発展過程が確認され、特に窯道具や焼成技術面で多くの新機軸が採り入れられた。
国内及、国際取引の商品として、高火度焼成陶を生産する為に、スコタイに横烙式窯が出現したのは、この期間中であった。
中国の強い影響と、若干のペトナムの影響が認められるのは、この高火度焼成陶の分野においてである。生産地址の上層には、僅かばかりのペトナムの陶磁片と共に、大量の中国陶磁片を含有している。
シサッチャナライの輸出陶のかなりの部分、特に青磁の皿、釉下鉄絵せっ器や、又青磁釉や黒釉のかかった貯蔵用壼等は、その形式や文様の点で中国の影讐を受けたことを示しておる。
外国の陶片では中国の明時代の青花磁器が圧倒的だが中国の上絵磁器や青磁の破片も発見されている。
外国陶磁があるにもかかわらず、シサッチャナライやスコタイの焼物には、中国の年号や銘文が付いていないのはタイ人が青花文様のある焼物は焼造せず、また真の磁器や上絵物を作ったりはしなかった。
明時代の青花磁器から文様を採り入れたことは事実だが、経験のある中国の絵付師が、タイの焼物生産に、直接携わっていなかったと思われることをつけ加えておかねばならない。
中国の意匠をもつ円形文様は、そっくりそのままには描れていないし、またできるだけタイ式の装飾方法に近づけようとする試みがなされている。
タイの宗教的装飾物にはその例があるので、中国の巻貝文は上手に採り入れられたといえるが、樹下文人図などは、僧侶が鉢を持っている姿に描かれているし、様々な花束や花箭文などは、まるで金剛杵のように描かれ、自由に再解釈されている。
中国の絵付師が製陶地内にいたのではないかという考えには、疑問が残るが・・・にもかかわらず、ではどのようにして中国の様式がこちらへ伝承されたかは未だ不明である。
実際大量の中国やペトナムの陶磁器がいかにしてシサッチャナライの生産地へ到達したのであろうか。
シサッチャナライやスコタイにおける装飾の伝承の全体について、タイ国自体の技術かもしれない。
現時点(資料を調べて結果)では、なお不明である。
窯の構造と技術がどこで始まったか、タイ国内ではそれらがどの程度に発展したか、外国からそれらをどのくらい吸収したかなどは、将来解決せねばならぬ課題である。
1980年における36号窯の発見や、それに引き続いた発掘などが、北部タイの窯とこちらにある窯とに、密接な類似性が存在することを示している。
この産業の多くの面が、製陶と銅器製作の永い歴史をもつタイ国自生のものであったということは、いい得るかもしれない。
中国の高火度焼成陶が持っている古くてきわめてすぐれた歴史に対しても、このような見解を措定しておかねばならない。
伝えられるところによると、中国の景徳鎮の横焔式窯には、シサッチャナライやスコタイの煉瓦窯と似たものがあるということである。
自信をもっていえるのは、シサッチャナライにおける製陶の永い歴史は、思慮深い性格を持っていたということである。
技術の起源の問題はさておき、シサッチャナライが、その歴史の中で、中国を除く東南アジア大陸内で、陶磁生産の最も重要な中心の一つとしての地位を獲得した発展的な次元は明らかである。
14世紀から16世紀の間に、国際貿易の構造に著しい転換が起こるにつれ、中部タイの製陶産業は、焼造上の進んだ技術や陶磁器の新しい形式に対し、見事な適応をしていったのである。

トロス
代表者:阿部 正敬
東京都江戸川区松島2丁目

タイ王国チェンマイ市
Copyright2001-2008・ TOROS. All rights reserved.
l